オートクチュール・コレクション 心配無用だった。ガリアーノと「マルジェラ」のマリアージュ

「あれは『マルジェラ』であり、ガリアーノだ。今回のコレクションは、ガリアーノを変え、『マルジェラ』を変え、そして、ファッションの世界を変えるだろう」――。「メゾン マルジェラ(MAISON MARGIELA)」(招待状には、ブランド名から「マルタン」の名前が抜けていた」)のクチュールに相当するライン「アーティザナル」の2015年春夏コレクションを見て、レンツォ・ロッソ=オンリー ザ ブレイブ代表は、こう語った。レンツォ代表の言う通りだ。ファッション界の最前線に4年ぶりに戻ってきたジョン・ガリアーノによるコレクションは、「マルジェラ」の大きな特徴である過程や時の経過を痕跡として残す脱構築的なコレクションでありつつ、彼らしい歴史ある洋服に裏打ちされたロマンティシズムを感じさせた。関係者のウワサ話によれば、事前にコレクションの一部を見た人たちは、「あれはガリアーノであって、『マルジェラ』ではない」と話したという。それは違う。あれは『マルジェラ』だった。しかし、これまでの『マルジェラ』ではなく、ガリアーノの『マルジェラ』だった。
コレクションは、3つに大別できるだろう。最初のパートは、アーティザナルラインが長年作り続けてきた“普通なら洋服に用いることはない素材で作る洋服”のパート。ファーストルックは、色ムラのあるボロボロの紙で作ったハイウエストのミニドレス。ヘムラインやバストを強調したトリミングは、ラッカーで真っ黒に塗りつぶしたミニカーだ。このパートで多用したのは、ホタテ貝などの貝殻と、PVC(ポリ塩化ビニル)、それにラッカーをぶちまけグチャグチャになってしまったレース。それらをいずれも、ガリアーノらしいテントラインやフィット&フレア、Aラインのドレスにのせ、アグリー・ビューティ(醜さの中に潜む美)を表現する。アグリー・ビューティは、たとえば没落した貴族のスタイルなどを描いてきたガリアーノにとって、ある意味得意とする表現の1つ。早くもこの段階で、ショーを見たおよそ100人の業界関係者は、ガリアーノと「マルジェラ」の親和性の高さを感じとったことだろう。

これに続いたのは、脱構築、特にメンズとウィメンズウエアの双方を解体・再構築し、性差を超越した一着に仕上げたパート。ここではクリエイションのベクトルが、ガリアーノよりはむしろ、「マルジェラ」に寄った印象だ。ビスチェドレスには、半身にだけマニッシュなジャケット、もしくはメンズライクなパンツが上下反転してのせられた。

そして最後は、ガリアーノが最も愛したルージュ(真紅)のパート。クリエイションのベクトルは、再度「マルジェラ」からガリアーノにシフトした。司祭服のようなマキシ、ホルターネックのドレス、そして脇を大きくえぐったマオカラーのドレスなどは、いずれもシンプル。その美しさに一瞬ホッとしていると、最後は再び、ジャケットで作ったトレーンを引くボリュームたっぷりのアシンメトリーで脱構築的なドレスにより、アグリー・ビューティの世界に引き込まれる。このドレスをまとったモデルは、今回のショーの中で唯一、これまでの「マルジェラ」アーティザナルラインの定番だった、マスクを被り登場した。

24のドレスやジャケットが一方通行のランウェイを足早に過ぎ去ると、今度は反対から、同じモデルが、数分前まで自分たちが纏った洋服のトワル(簡単に言えば、ダミー)を着て、反対側から現れた。トワルは、粗野なモスリンや紙で作られ、仮留めのピンなどもそのまま。「マルジェラ」のクリエイションにおいて常に価値を持つ“時の痕跡”を感じさせる。レンツォ代表は、「ガリアーノは、作品が完成するまでの全てを見せたかったようだ。ドレスは、すべてを語ってくれる。だからこそ、今回自身は何も語らないことを選んだんだ」と話した。確かに、パターンがびっしりと描きこまれた状態のトワルを見れば、それだけで、ガリアーノが第一線に復帰できた喜びに溢れていることがうかがえた。ガリアーノは、最後は自らが花道で大見えを切るなど、常に劇場のようなショーでファンタジーを振りまいてきた。「マルジェラ」流に変容はしているものの、シアトリカルな演出も健在だ。

復帰一発目のショーは、成功だったのだろうか――?ショーに招かれた100人は、今回のコレクションから、彼の華々しい第二幕の始まりを予感したようだ。その証拠は、ショーの前より、後のほうがはるかに弾んだ彼らの会話。米「ヴォーグ」のアナ・ウィンター編集長や、「ランバン」のアルベール・エルバスや「バーバリー プローサム」のクリストファー・ベイリー、ケイト・モスらのセレブや業界関係者は、ショーの前は挨拶もそこそこ自らの席に座り少し緊張しながらガリアーノの復活を待ったが、その後は多忙であろうにも関わらずしばしショー会場で語り合い、彼の現場復帰を喜び、興奮しているようだった。

一世を風靡した「カリスマ店員」が見た平成リアルクローズ史 森本容子の過去・現在・未来

平成ファッション史を語る上で欠かすことができないのが、1990年代半ばから盛り上がりを見せた「ギャルブーム」とその聖地といわれた「渋谷109(マルキュー)旋風」、そしてそこで働く販売員たちに注目が集まった「カリスマ店員ブーム」だ。若い女性がファッションもカルチャーも経済さえもけん引するパワフルな時代だった。

その象徴的な人物が、森本容子だ。「エゴイスト(EGOIST)」の販売員時代からテレビや雑誌で紹介され、99年に「カリスマ」が新語・流行語大賞を受賞した際の説明文には、「森本容子ら」という説明が入っていたほどだ。その後、プロデューサーとして「マウジー(MOUSSY)」をデビューさせ、後に独立して「カリアング(KARIANG)」を設立。雑誌「アエラ(AERA)」(朝日新聞出版)の「現代の肖像」や、中居正広が司会を務めるTBSの“金スマ”(「金曜日のスマイルたちへ」)でその半生が取り上げられたりもした。

令和の時代を迎えた今、森本容子にあの頃と現在、そして未来への思いを聞いた。

大人向けのシンプルなカジュアルブランド「バンカー(BANKER)」のデビューまで報じましたが、最近はどんな活動をしていますか。

拠点としているバリと東京とを行ったり来たりしながら、引き続き、ヨーコモリモトデザインオフィスの代表として「カリアング」や「バンカー」、雑貨をセレクトした「YMDO」、ショップチャンネル向けの「ヨーコモリモト(YOCO MORIMOTO)」などを手掛けています。昨年12月に待望の第一子が生まれたため、しばらくは仕事をスローダウンしているところです。最近は平成の振り返り企画などで取材を受ける機会も増えています。

マルキューブームやカリスマ店員ブームは、ファッションの枠を超えた社会現象にもなりましたし、クイックで商品を作って高速回転させるOEM(相手先ブランドの生産)型のビジネスモデルで成功したという面でも画期的でした。猛烈だった時代を振り返る前に、あらためてこの業界に入ったきっかけを聞かせてください。

軽い気持ちで始めたアルバイトがきっかけです。高校時代にサーフィンにハマり、冬でも海に入っていました。雨の日にはすることがなくて、池袋のサンシャインユー(商業施設の三越YOU館)にウインドーショッピングに行ったときに「クラブカリフォルニア」(現「リトルニューヨーク」)の男性店長にスカウトされたんです。でも、高校生は雇わないから卒業したら来てねということで、春休みから通い始めました。

建築系専門学校の中央工学校に進学し、インテリア・設計を専攻したのですが、美大や建築系の大学などを出た人たちが通うくらいレベルが高く、勉強やデッサンの出来も、将来に対する思いの強さも全然及ばない。しかも濃い色のマニキュアをつけていたら製図にいらない線がついてしまったり、派手な人が少なくて私だけ浮いていて居心地も悪くて。何百万円も授業料や材料費を払ってこのまま学校を続けるよりも、好きな格好をしてお金が稼げるならその方がいいと、2カ月足らずでやめてしまいました。今でいうフリーターの出来上がりです。

渋谷109がブームになる前は、ギャル系の服で一番勢いがあったのは池袋のサンシャインユーでしたね。

はい。ギャル服のメッカといえば池袋でした。それがだんだん渋谷109が話題になり、販売員も見栄えのいい子を集めるようになっていきました。「マルキューで働けるのはステータスなんだよ!」といわれても、埼玉在住だった私は通勤が遠くなるからと断っていたのですが、マルキューの売り上げが大きくなる中で、イヤイヤながらも渋谷109店に異動することになりました。そのころ勤めていたのは「カパルア(KAPALUA)」です。責任を負ったり会議に出たりするのが嫌で、「(アルバイト販売員でなく)社員になって」といわれるたびにそーっと店を辞めては次の店に移って、というのを繰り返していました。販売員と社長のキャリアだけで社員経験がないんです、私。

たった14坪(売り場面積約46平方メートル)の店で、月に2億円以上売れた月もありました。しかも、買っていく子のほとんどが10~20代前半なので、1000万円のほとんどが現金でした。さすがにアドレナリンが出ましたね。スタッフが着ているものから売れていくので、1日に何度も着替えていました。バックヤードから商品を運んでくる “ランナー”と呼ぶ専門スタッフがいて、1日に何往復もするのですが、品出ししているそばから商品が売れていくというか、お客さまが奪い取っていくというか。嘘みたいな話ですが、本当にすさまじい売れ方をしていました。

「カリスマ店員」が生まれたきっかけや、当時の心境を振り返ると?

当時、人気の販売員は何人かいましたが、やはり渡辺加奈さんの存在が大きかったと思いますね。彼女が仕入れた服が好きで「カパルア」に入ったのに、すぐに「エゴイスト」のプロデューサーになってしまったんです。それまでの品ぞろえ型のセレクトショップ風の店から、オリジナル中心のブランドにリブランディングするとともに、スタッフは今も「エゴイスト」にいる(中西)理沙さん以外入れ替わりました。そのときに加奈さんから声をかけてもらって、私も「エゴイスト」に移りました。

加奈さんは、店舗の内装や商品だけでなく、スタッフのヘアやメイクや着用するスタイリングまで含めて、トータルにブランディングをしていったんです。まさに歩くマネキンでしたし、スタッフを雑誌に登場させて、モデル的な役割も果たすようになりました。

「カリスマ店員」の言葉を生み出したのは、「東京ストリートニュース」の編集者さんや、マルキューの広報の喜多将造さんだったと思います。マルキューに注目が集まる中で、雑誌やマスメディアに取り上げる子についても、当初は喜多さんと編集者さんが抜擢したり、ブランドから推薦してもらったりしながら、人気のある子がどんどん露出するようになっていきました。

ファンになってくれたお客さまから、お手紙やプレゼントをもらったり、一緒に写真に収まったり、握手をしたり。感激して泣き出してしまう女の子もいました。うれしさもありましたが、ただの販売員なのに、街中でも声をかけられたり、髪型やメイク、さらにはピアスの場所までマネする子たちが増えて、戸惑いもありました。

店頭での接客販売だけでなく、撮影や海外仕入れなど、店員の枠をはるかに超えた仕事をされていました。やはり大変でしたか。

「エゴイスト」時代は楽しかったけど、とても過酷でした。休みは週1日だけ。でも、そこに雑誌の撮影が入ってしまうので、休みなしで働いていました。しかもほぼ毎週、月~水曜日は韓国に飛んで、昼は南大門を中心に生地屋を回り、サンプルを依頼したり、修正して製品を縫ってもらったり。夜は東大門を中心に深夜まで服やアクセサリーの買い付けをして、寝るのは夜が明ける4~5時ごろ。翌日も朝から仕事をし、水曜日にはハンドキャリー分の商品とともに帰国して、そのまま店に直行し、タグ付けしたり店頭に並べたりしていました。

あまりにもキツイので、撮影は勤務時間内にお願いしたいと申し出ると、編集部はOKでも、他のスタッフから「みんな休みの日に撮影しているのに、容子ちゃんだけズルい」と文句が出たりしました。「え、私、買い付けにも行ってるんですけど……」と思いつつ、ニンニク注射を打ちながら寝ないで仕事や撮影をこなしていました。疲れすぎて、店に立ちながら居眠りしちゃうぐらいヘトヘトでした。

寝ずに仕事をして、バイト料の手取りが月25万~26万円ぐらい。そのころから、「大人って若い子を使い捨てしているんだな」って意識はありましたね(苦笑)。ただ、加奈さんがスタッフの士気を高めたり、よい経験を積むためにと会社と交渉してくれて、社員旅行では海外のよいホテルに泊めてもらったのがいい思い出です。

1999年12月、新語・流行語大賞に「カリスマ」が選ばれました。カリスマ店員やカリスマ美容師などを代表して受賞者は「森本容子、その他」となっていました。でも、授賞式のときには「エゴイスト」を辞めていましたね。

疲れちゃったんですよね。もともとずっと表に出たかったわけでもなかったし、歳の離れた弟が脳腫瘍の発作で倒れてしまったのをきっかけに、辞めることにしました。「流行語大賞の表彰式に出なくてもいいの?」ともいわれましたが、目立ちたいわけでもなかったですし、それ以上に「カリスマ店員」を社会現象にしたのは、マルキュー広報の喜多さんとか雑誌の編集者さんの力も大きかったので、私が受けるのもどうかなと思ったというのが正直な気持ちでした。「当分、雑誌には出るな」「士気が下がるから、辞めることをスタッフに話すな」といわれていたので、みなさんにきちんと挨拶できなかったのが少し心残りだったのですが、次の仕事を決めずに、1999年10月にエゴイストを辞めました。

そこから「マウジー」の立ち上げに参画して、今度はプロデューサーとして才覚を発揮されました。

2000年4月に渋谷109に「マウジー」をオープンしたのは、22歳のときでした。もともとデニムが好きだったのですが、当時は、セクシー・エレガンス系やサーフ系のブランドか、PUFFYさんがはいていたような裏原宿系のメンズっぽいものやストリート系のものがほとんどでした。そこで、オンスの厚い本格的なデニムを使って、シルエットは女性らしく、スタイリングもTシャツやトレンチコート、テーラードジャケットなどを合わせるような、それまでになかったカッコいいスタイルを提案したことで、ギャル上がりの子や一般の人々まで幅広く支持してもらえました。ボスのアイディアと、雑誌、編集者の方々との取り組みもうよかったのだと思います。

雑誌「エスカワイイ!(S Cawaii!)」(主婦の友社)や「ランキング大好き」(ぶんか社、後の「ランズキ」)の表紙を飾らせていただいたりもしましたが、特に「カワイイ!(Cawaii!)」のお姉さん版の「エスカワイイ!」は、私をロールモデルにして創刊したといわれ、とっても光栄でした。

その後も、マーケットで空白だったゾーンに向けて新ブランドを開発していきました。

「マウジー」のでデビューから3年ぐらいたつと、私自身の目も肥えてきて、「グッチ(GUCCI)」や「ドルチェ&ガッバーナ(DOLCE&GABBANA)」「プラダ(PRADA)」「ミュウミュウ(MIU MIU)」「ジミー チュウ(JIMMY CHOO)」などのハイブランドの服や靴を身に着けたり、ファーもリアルでゴージャスなものを好むようになりました。普段着でも「もっといいものを着たい」と思うようになりました。

そこで、会社と折半で新会社を作って、ギャルを卒業した大人の世代に向けて、年齢を重ねて素材感やサイズ感などをアップグレードした「プラチナムマウジー(PLATINUM MOUSSY)」をデビューさせました。マルキューで育った「マルキュー世代」の女の子は、大人になったからといって、いきなり百貨店系のコンサバブランドで買い物をするようにはなりません。そこで、トレンドにも敏感で、でもシックでベーシックで、価格も百貨店価格とマルキュー価格の間ぐらいのちょうどいい買いやすい価格のラグジュアリー・カジュアルを提供することにしたんです。

20代後半になると、痩せていても二の腕やウエスト回りなどに肉づきがよくなってきて、隠したくなる部分も出てきます。だから、体形補正機能を持たせたり、目の錯覚で細見えするデザインなど、いろいろな工夫をしました。

同世代の女性のリアルな悩みに応えていると好評だったのですが、自分が本当にやりたいことができているのかどうか分からなくなってしまったんです。それで一人で辞めようと思っていたら一緒に働いていたスタッフに「容子さんが辞めるなら私も辞めます」「容子さんがブランド作ってください」と言われて……。それならと腹をくくって独立し、05年12月にローカスター社を設立し、06年春に「カリアング」の出店を開始しました。

「カリアング」やドレスラインの「ドレアング(DREANG)」は、「プラチナム マウジー」をさらに発展させて遊び心を入れたり、プロのパタンナーを起用して、より着心地のよい立体的で本格的な服作りをしていましたよね。でも、経営的には苦労したと聞きました。

一点一点の着やすさはもちろんのこと、少ないアイテムで1カ月間の着回しコーディネートができるようなスタイリング提案も支持してもらえたと思います。直営店が16店舗ぐらいまで増えて、売上高も20億円以上あったのですが、経営者に迎えた大人たちが知らないところで大金を銀行から借り入れをしていたことが発覚したんです。その額、数億円。裁判では勝訴しましたが、悪い事をしたもん勝ち!? お金は戻らず悔しい思いをしました。

その後、住金物産系のジュライスターと「ドレアング」をライセンス契約をしていた縁で、「カリアング」を引き継いでいただき、私はヨーコモリモトデザインオフィスとの契約を通じてディレクションに携わるようになりました。その後、「カリアング」はオンワードのグループ会社の傘下で手がけることになりました。縫製工場を変えるといわれて泣く泣く従ったりもしたのですが、縫い方が汚かったり、ボタンがすぐに取れてしまったり……。それまで、私たちがこだわりを持って作っていた商品とはかけ離れてしまい、結局、リスクをとってでも自分たちで好きなことをやろうと決めて、グループ事業の見直しに合わせてブランド運営を自社に戻したというわけです。

「バンカー」や「Y.M.D.O.」などのオンラインストア売上高が月に400万~500万円前後。テレビ通販の「ショップチャンネル」では、お誘いを受けて17年3月から「ヨーコモリモト」を販売しています。当時39歳で最年少デザイナーだったのですが、幸先の良いスタートを切りなかなかの成績を収めています。リアル店舗も渋谷西武などに構えていたのですが、妊娠しても子供が育たない「不育」で何度かダメになっていたので、身体に負荷がかからないようにと、撤退させていただいたり、仕事を少しセーブしたりもしてきました。「不妊」はよく聞くと思うのですが、「不育」はなかなか研究が進まず、専門の病院や医師も少ないんです。昨年5月に4回目の妊娠が分かったときには、すぐに入院して、朝晩自分で注射を打つなど、慎重に過ごしてきました。昨年12月、予定日の3週間前に37週で生まれました。今は子育てが楽しいですね。

これから挑戦してみたいことや、やってみたいことは?

飛ぶようにモノが売れて、1日1000万円を売り上げるみたいな醍醐味を一度味わってしまっているので「夢よ、もう一度」という気持ちはありますが、もう二度とああいう時代はこないでしょうね。体育会系の子たちが、売れるもの=自分たちがいいなと思うものを作って、自分たちで考えて動いて売って、正解もルールもなく、効率や正しい手順などもなくて。ただ、がむしゃらでしたからね。

私たち自身、遊びにもお金をかけていました。夜になれば面白い人が集まるクラブに行ったり、海外旅行をして、街並みや店や建造物やアートなどを見たりして、いろいろなことを吸収していました。今ではスマホで見て、行った気になったり知った気になったり、洋服も実際に買わなくてもフィッティングルームで写真を撮ってSNSに挙げられたり。努力しなくてもオシャレを装うことができるようになっていますからね。

実は私、ある程度年齢を重ねたら、見込みのある若い子を抜擢してプロデュースしたいなと思っていたんです。でも、今は世の中も働き方も変わり、若い子たちはみんないい子だけど、手応えがなくて。成り上がりたいという意欲や負けん気みたいなものがなくなってしまったというか。お客さまも、選択基準に「無難」とか「値段」が先に来てしまって、トレンドを追わないとか、挑戦しないとか、ちょっと面白みに欠けてきてしまっていますよね。

ー若い人たちには失敗を恐れず挑戦してほしいと?

ただ、当時の私たちみたいな若い子に200万~300万円級の大金を持たせて、好きなものを買い付けてこいとか、若い子たちにたくさん投資をして経験をさせてくれるような人は減ってしまいました。ちなみに当時、大金を託されても、ビビって使い切れない子がいる中で、みずき(フェイクデリックで「スライ(SLY)」を立ち上げた植田みずき。現在はバロックジャパンリミテッドのカンパニー・クリエイティブ・ディレクターで「エンフォルド」クリエイティブ・ディレクター)と私はきっちり使い切っていました。それができるくらいの子でないとブランドを成功させられないと周りの大人たちに言われていました。

そう考えると、やっぱり自分たち自身が同じ世代に育ったお客さまに向けてモノ作りをしていった方がチャンスはあるかなと思います。団塊ジュニア世代で人口も多いですし。たとえば「カリアング」は今、カットソーやニットが中心なのですが、ブラウスとかちょっとした通勤着になるような布帛も増やしていきたいですね。おこがましいけれど、お客さまに待たれているような気がするんです。マルキューブームを通過してきたアラフォー向けの服をうまく作れる人って、実はそんなにいないですよね。服も、売り場も、販売スタッフも、ちゃんと私たちが同じ世代に向けて、自分たちが本当に欲しいものを提供していったらきっと刺さる。もちろんすぐに軌道に乗ったり儲かったりするとは思いませんが、けっこううまくやれると思うんですよね。信頼してくれる方と一緒に、また面白いことができたらいいですね。

ジャッキーが愛したシュランバージェの傑作が勢ぞろい

「ティファニー(TIFFANY)」を代表するデザイナーの一人ジャン・シュランバージェ(Jean Schlumberger)のハイジュエリー・コレクションの発表会が10月、東京で開催されました。シュランバージェは、ジャクリーヌ・ケネディ(Jacqueline Kennedy)やエリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor)、米「ヴォーグ(VOGUE)」の伝説の編集者であったダイアナ・ヴリーランド(Diana Vreeland)などが愛した伝説のジュエリーデザイナーです。

シュランバージェは1956年に「ティファニー」の専属デザイナーになりましたが、それ以前にも、エルザ・スキャパレリ(Elsa Schiaparelli)に才能を見出され、彼女のコレクションのためにコスチューム・ジュエリーやボタンなどを制作したことがあります。ニューヨークに開いた彼自身のサロンにはヴリーランドや、1950~60年代にスワンと呼ばれた社交界の花、ベイブ・パーリー(Babe Parley)、スリム・キース(Slim Keith)などが顧客に名を連ねました。自然界の動植物をモチーフにした有機的で生き生きとした彼のジュエリーはまるで芸術品の域です。

今回お披露目された“ナチュラル ワンダーズ”と題されたコレクションは過去最大。アーカイブの作品や新たによみがえったアイテム、初めて商品化されたジュエリーなどが勢ぞろいしました。

私がシュランバージェと出合ったのは、の2014-15年秋冬ジュエリー別冊の巻頭特集の撮影でした。「ティファニー」のアイコニックなジュエリーをテーマ別に紹介するページです。モルガナイトやクンツァイトなど「ティファニー」が名付け親となったカラーストーンのリングの数々に「まるで、キャンディーみたい!」と女性のスタッフは大興奮。それ以上にインパクトがあったのが、クラゲをモチーフにした大胆なブローチやエナメルのブレスレット、緻密で立体感のあるリングといったシュランバージェの作品です。どれも華やかで繊細で、一度見たら忘れられないデザインでした。撮影から数年経過し、彼へのオマージュのコレクションが日本にやってくると聞いて、心が躍りました。

会場に到着すると、ジャングルのような幻想的なプロジェクションに迎えられ、アーカイブの数々が展示された部屋に案内されました。ヒトデや巻貝などの海洋生物からダリアなどの植物をモチーフにしたジュエリーをはじめ、置時計やシガレットケースなど、どれも目を見張るものばかり。中には、ジョン・F・ケネディ(John F Kennedy)が妻のジャクリーン・ケネディ(Jaqueline Kennedy)に贈ったフルーツのブローチや、ヴリーランドやキースが所有していたブローチなどもありました。シュランバージェのジュエリーは、今でも「ティファニー」のコレクションとして販売されていますが、アーカイブの作品に触れられる機会はめったにありません。まさに、ため息ものでした。

奥の別室には“ナチュラル ワンダーズ”のコレクションが展示されていました。オーキッドやカカオビーンのブローチなど、まばゆいジュエリーの数々に目を奪われました。ふと、ジュエリーケースから目を離すと、エレガントな紳士が目に入りました。「ティファニー」のチーフ・ジェモロジスト(宝石鑑定士)であるメルヴィン・カートリー(Melvin Kirtley)氏です。15年夏に彼が来日した際、インタビューしたのを覚えていてくれました。彼はイギリス人で、「ティファニー」のジュエラーとしての圧倒的な存在に魅了され、ジェモロジストになり、今では「ティファニー」には欠かせない人物です。彼は、コレクションのハイライトを解説してくれました。彼は、「シュランバージェの作品は、全てスケッチからスタートします。このカクタスのブレスレットは、過去、制作されたことありません。シュランバージェのスケッチをもとに、数カ月かけて誕生しました」言います。また1960年にデザインされたヴィーニュ(ブドウ)のネックレスには、当時用されたアメシストの代わりにタンザナイトが使用されているそうです。「こんな大きなタンザナイトをどうやって集めたのですか?」という問いに、「『ティファニー』だからできることです。あえてランダムに石を配置し、一つ一つセッティングしているので、ブドウのつるがからまる様子が生き生きと表現されています」と説明してくれました。

自然界の美しさを、豊かなイマジネーションと洞察力で細部まで生き生きと表現するシュランバージェと、彼のデザインを実際にジュエリーとして作り上げる「ティファニー」の職人技に圧倒されました。アーカイブから、新たな息吹を与えられたジュエリーまで、シュランバージェが描く夢の世界に誘われた一夜でした。

“黒人差別”と物議を醸した「グッチ」 CEOが釈明、独占インタビューを公開

グッチ(GUCCI)」がECサイトで販売していたバラクラバ帽風のトップスが黒人差別と物議を醸した件について、マルコ・ビッザーリ(Marco Bizzarri)社長兼最高経営責任者(CEO)が米「WWD」の独占インタビューで釈明した。

問題となったバラクラバ帽風のトップスは、口紅風のデザインが施されたタートルネックの部分から口をのぞかせることができる黒のニットで、ブラックフェイス(黒人以外の役者が黒人の役を演じるために施す化粧)を想起させると一部のツイッターユーザーなどから批判を受けた。「グッチ」は2月7日に「ウールのバラクラバのセーターが呼んだ議論について、深くお詫び申し上げます。ダイバーシティーはあらゆる決定を行う際に最初にあるべき基礎的な価値観であり、十分に支持され、尊重されるべきだとわれわれは考えています。われわれは組織全体でダイバーシティーの拡大に取り組み、この事件を『グッチ』チームにとって大きな学びに変えることに、そしてそれ以上になるように、全力で取り組んでいます」という声明文をツイッターに投稿。同商品をECサイトから削除し、店舗でも販売を中止した。

しかし騒ぎはそれだけでは収まらず、これまで「グッチ」と協業し限定コレクションの発表やショップをオープンしてきたニューヨーク・ハーレムの伝説的テーラー、ダッパー・ダン(Dapper Dan)ことダニエル・デイ(Daniel Day)がツイッターとインスタグラムで10日に声明を発表。「私はブランドである以前に、黒人だ。あるファッションブランドはこれをひどく誤解しているようだ。この種の侮辱を晴らすことができる言い訳も謝罪も存在しない。グッチのCEOはコミュニティーのメンバーや他の業界リーダーたちと共に、私に会うために今週中にイタリアからハーレムに来ることに合意した。自らの行動に責任を取らないのであればインクルーシビティーはあり得ない。私は全員に責任を問うつもりだ」と怒りをあらわにした。

12日、アレッサンドロ・ミケーレ(Alessandro Michele)「グッチ」クリエイティブ・ディレクターは全社員1万8000人に向けて、自身のメールアドレスからメールを送信した。メールは「同僚たちへ」で始まり、「あのセーターには、人々が受け取ったのとは全く違う具体的な着想源があったとあなたたちに知ってもらうことは、私にとって非常に重要なことだ。あのセーターは、リー・バウリー(Leigh Bowery)と彼のカモフラージュアート、資本主義的な慣例や体制順応主義に挑戦する力、パフォーマーとして奇抜で並外れた存在であること、そして自由への賛歌として仮装することの彼の使命感にオマージュを捧げたものだ。その意図に反して、セーターが人種差別的なイメージを呼び起こしてしまったことに大きな悲しみを感じている。しかし、行動が意図せぬ結果を招くことはある。だからこそ説明責任を果たすことが必要だ」と本来の意図を説明した。

さらにミケーレは「慣習的にメインストリームから外れた人たち、見過ごされていると感じている人々、歴史から無視されて自分には価値がないと思い込んでいる人たちに権利を与えたかった。私が目指していることは、個人的なことや政治的な関係も密接に織り交ぜて、痛みを聖歌に変えることだ」とこのセーターを通して実現したかったことを述べ、メールの最後に「私のせいで傷ついた人々に心から申し訳なく感じており、その痛みから守りたいと思っている。私のことを知っている人たちの理解を頼りに、私の仕事を形作っているのは常にダイバーシティーへの賛辞であることを認めてもらえることを心から願っている。ダイバーシティーへの敬意こそ私が大事にしているものだ」と謝罪した。
こうした状況の中、ビッザーリ=グッチ社長兼CEOが、なぜこのようなことが起きたのかや具体的にどう問題解決に向けて取り組むのかといった質問に正直に答えた。グッチ社長兼CEOのインタビュー全文は以下の通りだ。

あなたとミケーレはこれまでインクルーシビティーやダイバーシティーの向上に取り組んできた。だからこそ今回の件はあなたたちの意志とは全くそぐわないように見える。おそらく多くの人が尋ねていると思うが、まずはなぜ今回の件が起きたのか?そしてどうしてこの商品が世に出ることにゴーサインが出たのか、そのプロセスで何か間違いがあったのかを聞きたい。

マルコ・ビッザーリ社長兼CEO(以下、ビッザーリ):今回の件は、この問題への無知が引き起こしたもの。これは言い訳ではないが、断じて意図したものではない。われわれはミスを犯した。だが本件は人々に不快感を与えてしまったために、他のミスよりも深刻だ。過去4年間社内で行ってきた取り組みがあったにもかかわらず、ダイバーシティーへの理解が欠けており、そしてわれわれが期待していたレベルの理解が、社内全体で一定でなかった。正しいレベルまで意識を向上させ、プロセスがきちんと報告されるように可視化するべく、現在このプロセスを見直している。今回の件は、知識の欠如が原因だった。

何が起こったのかをより理解するために、あなたがとりたいと思うステップは?また、この状況をどのように修正するのか?

ビッザーリ:まずは社内でこの問題を理解することだ。このところパーソンズ美術大学での会議のためにアメリカを訪れていて、店舗やわれわれのコミュニティーにいる人たちと直接話すことができた。異なる文化と異なる国の両方から来るこの問題がどれだけ深いのかを自分の目で把握するためだったが、問題が机上にありながら、はっきりと見えていなかった。

しかしアメリカのチームと対話し、先週さまざまな街を訪れ、この問題について読んで学び、この問題が世間一般だけでなく、私たちの従業員にとってどれだけ深いものなのかを理解した。なぜなら私たちの会社はグローバル企業であり、だからこそ社会の鏡でもあるからだ。どの場所でも意識と理解を高めるニーズがある。私たちが陥る可能性がある危険は、この問題の本質を皆が真剣に受け取らないという事態だ。われわれは学び、これが絶対に二度と起こらないようにしなければならない。

まずは、1番コントロールしやすいわれわれのコミュニティー内を改善したい。グッチはファミリーであり、われわれの行動もこれを反映していないといけない。この考え方と理解を全チームで迅速に共有し、店舗でも会社でもコミュニティー内の誰かがこの問題の重要性を理解できるようにしている。同じようなことが再び起こったとき、この問題に気付く力とその懸念を共有する声を上げる権利が全従業員にある。みんなが会話に参加し、その一員になることがこの問題の解決策になるよう、尊敬と信頼を育みたい。

社内外へのアプローチは、非常に迅速に動くつもりだ。可能であれば今週末までにニューヨーク、ナイロビ、東京、北京、ソウルなどの主要都市で奨学金プログラムを発表したい。これにより、クリエイティブオフィス内に多様性のあるコミュニティーを生むことができる。また、建設的かつ適切な枠組みを築くために、こうした重要なイニシアチブについてさまざまなコミュニティーのリーダーたちと話し合う予定だ。バラバラになるのではなく、われわれのコミュニティーに加わるようにみんなを招待したい。

ダッパー・ダンがニューヨークであなたと直接会って話すとSNSで明らかにしていたが、もう話したのか?まだならいつの予定か。また、これについてどう考えている?

ビッザーリ:そう、彼もこのリーダーのうちの1人だ。リーダーたちは私たちが何であるかを理解し、ポジティブな変化を生み出すために私たちに加わることを申し出てくれた。ダッパー・ダンとは透明性のある会話をし、これからどう発展させていくかというところだ。どうしたら改善できるかを聞いたり、改善する意欲を持っている人たちと誠実な会話をすることに、私たちは非常に力を入れている。話し合うことで問題を解決し、答えを見つけることができる。私は人々が差別される世界にはいたくない、自分とは違うことへの理解と尊重がある世界にいたいのだ。

ミウッチャ・プラダ(Miuccia Prada)は先月、世界中にあるさまざまな文化を知り理解するのがどれだけ難しいかについて話していた。どうしたらこれを克服できると思うか?ファッションブランドはチームメンバーがまず多様であるべきだとオブザーバーは指摘しているが、そう思うか?またこのような状況を回避するために、チームに多様なメンバーを加えようとしているか?

ビッザーリ:理解が必要なことは至るところにあり、われわれはこれを改善するために努力し続けなければならない。2015年(にチームを発足して)から、われわれの存在意義と、日単位で達成してきたこと全てはこの価値観をもとにしていて、ブランドの新たな章を築いてきた。特に、他の人を尊重しインクルーシビティーとクリエイティビティーを通してダイバーシティーを追求することはわれわれの行動の中心にあることだ。われわれが共有し、創り上げてきた企業文化があるからこそ、グッチはユニークであるのだ。

イタリアを拠点とする企業であることを考えれば、世界中の地域にいるチームが世界の代表になるための道があるように努力しなければならない。ミケーレはいつも、人との違いがわれわれのクリエイティビティーの源になり、同時にわれわれを形作っているものだと教えてくれた。行動と文化を変えるには時間がかかる。自分たちはよい立場にいたと思っていたが、私たちにはまだやるべきことがたくさんあり、早く動かなければならないことに気づいた。

人々がいかにデリケートで、常に皆が正しい立場にいなければいけないことを考えると、このような状況はほぼ避けられないのでは?

ビッザーリ:私たちは、SNSのおかげでみんなが直接的で透明性のある会話ができる世界に生きている。本来の自分を表現することができるこの環境に感謝しなければならない。しかし、現在という時間を追わなければいけないことと、現実的でなければいけないことで生まれる問題もある。これらのリスクを回避するための唯一の方法は、より多くの知識と理解を得て、誠実かつ透明性のある方法ですべてのコミュニティーと関わることだ。